明大前の歴史



明治大学 和泉キャンパス

杉並区永福に位置する明治大学・和泉キャンパスは、1934年に予科校舎が完成し授業が始まったことで、その歩みをスタートさせました。白い外観の近代的な建物は「白亜の殿堂」と呼ばれ、当時としては新しい学びの場として注目されていました。周囲は市街地から少し離れた静かな場所で、広い土地を生かしてグラウンドなどの施設も整えられていました。

キャンパスへ至る道は現在よりも細く、学生の足でにぎわう通りでした。昔を知る人の間では、この通りに雀荘が多く並び、学生たちのたまり場になっていたとも語られています。授業の合間や放課後に友人と集まる場として利用されていたようで、当時の学生街らしい雰囲気があったことがうかがえます。

和泉キャンパスには、講義棟のほか、運動施設としてグラウンドや道場などが置かれていた時期もあり、学生たちが学業と部活動を同じ敷地で行える環境が整えられていました。広い敷地が確保されていたことで、大学生活の拠点として多様な使われ方をしていたことがわかります。

その後、学生数の増加や教育環境の変化に合わせて、和泉キャンパスは大きく整備が進みました。古い建物は建て替えられ、新しい学習施設や図書館が整備され、現在の落ち着いたキャンパスへと姿を変えています。かつて「白亜の殿堂」と呼ばれた校舎が新たな形で受け継がれている点も、このキャンパスの歴史を感じさせる部分です。

現在の和泉キャンパスを歩くと、静かで整った学習空間が広がっています。しかし、その背後には、細い坂道や学生のにぎわい、そして当時の生活の空気が確かに存在していました。今の穏やかな雰囲気の中にも、長い時間をかけて築かれてきた学生文化の面影が静かに残っているキャンパスといえるでしょう。



明大前駅前に隠された
小さな「歴史の断片」たち

いまでは学生と住民でにぎわう明大前駅ですが、この一帯には意外と知られていない歴史のエピソードがいくつも眠っています。

かつて明大前駅には改札が2つあり、小学生が駅を“通り抜け”して反対側の通りへ抜けていく──そんな、今では考えられないようなのどかな光景がありました。また駅名も現在とは異なり、開業当初のわずか1年半だけ「火薬庫前」という名で呼ばれていました。駅の向きや改札の配置も今とは異なり、街の成長とともに少しずつ姿を変えてきたことがうかがえます。

さらに、渋谷から明大前までの運賃は70円。いまよりずっと身近な距離感で電車が利用されていた時代です。

そしてこの地域の地下には、“幻の鉄道計画”の痕跡も残っています。それは山手線より一回り大きい環状線として構想された「第二山手線」です。実現こそしなかったものの、そのために掘られたトンネルが長く地下に眠り続け、鉄道ファンの間では都市伝説のように語られてきました。

普段何気なく歩く明大前の街も、少し視点を変えるだけでこんな歴史が顔をのぞかせており、駅前には、思った以上に“物語”が詰まっています。



富士見通り

富士見通り(富士山通り)は、かつてこの周辺から富士山が望めたことに由来して名付けられたと伝えられる通りで、地域の歴史と情緒を感じさせる名称として親しまれています。また、商店街の節目には地域住民が協力し、40周年を祝してバザーが催され、地元の温かいつながりがうかがえます。通り沿いには商店や飲食店が並び、穏やかで落ち着いた雰囲気が漂う、暮らしに寄り添う通りです。



すずらん通り

— 通りについて

すずらん通りは、明大前駅 を中心とした 明大前商店街 のメインストリートのひとつ。駅を挟んで南北に延びる通りで、学生向けの飲食店から昔ながらの定食屋、日常の買い物に便利なスーパーマーケットまで、多様なお店が軒を連ねる“生活と青春”が混じり合う場所です。また、通りの入り口付近には「すずらん」をモチーフとしたアーチがあり、通りの雰囲気の目印となっているようです。学生や近隣住民、通勤・通学で駅を使う人たちなど、多様な人たちが行き交う場所であり、普段の買い物や食事だけでなく、商店街ならではの地域の温かさが感じられる通りです。

すずらん通りと地域のつながり

— 商店街の構成

明大前商店街は「すずらん通り」をはじめ、複数の“商店会”によって構成されています。すずらん通りはその中核的な通りで、駅前エリアにおける“生活の動線”となっています。通り沿いには飲食店だけでなく、スーパーマーケットや日用品を扱う店もあり、学生や地元住民にとって「駅から近くて便利で日常使いしやすい街」という面を支えています。

— 盆踊り大会

すずらん通りを含む明大前商店街では、毎年夏の終わりごろに 明大前サマーフェスタ&盆踊り(または「明大前盆踊り大会」)が開催されています。かつては学生たちも参加して、商店街の人たちと協力しながら、地域と学生の「接点」をつくる催しとして機能していました。当日は、通りや駅前に「やぐら」が組まれ、無数の提灯が夜空を照らし、お祭りムード満点。盆踊りはもちろん、屋台の焼きそばや焼き鳥などのグルメ、ヨーヨー釣りや射的など子ども向けの縁日コーナー、そしてダンスや学生パフォーマンスなど、老若男女が楽しめる内容だそうです。ただし、直近の情報では【2025年は開催なし】とのことで、再開は「2026年予定」とされています。

盆踊りを通して見える“地域と学生・住民のつながり”

この盆踊り大会は、ただのお祭りにとどまらず、地域と学生・住民の“つながり”を育む大切なイベントでした。たとえば、①商店街の人たちと学生が協力して運営することで、普段あまり接点のない人たちが顔を合わせる機会となる。②子どもや家族連れ、学生、地域住民――幅広い世代が混ざり合い、「この街らしさ」を体感・共有できる場となる。 ③通常の買い物や通学の“駅前の日常”とは別の「非日常」「お祭り」の時間を通じて、街に愛着や帰属感が育まれる。そういう意味で、すずらん通りは“商店街”以上のもの――地域文化と世代をつなぐ接点――として機能してきたように思います。

— 最近の課題と、今後への期待

ただし、2025年には盆踊り大会の開催が見送られたということで、地域の夏の風物詩のひとつが一時中断されているようです。こうした地域イベントが続いていくには、ボランティアの人手、商店街の運営コスト、近隣の住民・学生の関心など、いくつもの条件がそろう必要があります。だけど、もし再び盆踊り大会が復活すれば、すずらん通りの魅力を再確認する大きなきっかけになるはず。地域の“ゆるやかなつながり”や“街のにぎわい”を取り戻すチャンスだと、多くの人が期待していると思います。



松原富士

江戸後期から明治にかけて作られた富士塚です。この時代、富士山の登頂には莫大な時間と費用がかかりました。そのため、富士山に登れない人々のために、人工の山を築きました。これを作ったのは富士講と呼ばれる宗教的な集まりで、明大前でもこの集団は活躍していました。その活動によって作られたのが、松原富士です!



松原の隠れた名所

京王線・明大前駅から歩いてほど近く。和泉キャンパスのすぐ横に広がるのが、世田谷区の名所 築地本願寺 和田堀廟所 です。華やかな観光地とは少し違う、“深呼吸したくなる静けさ” が魅力の場所で、明大前の人々にとっては、生活とゆるく結びついたスポットでもあります。

実はここ、以前は明大前商店街の人たちがお花見をする場所としても親しまれていました。観光地ほど混み合わず、ゆっくり花を眺められるため、「地元の人だけが知っている穴場」といえるでしょう。お寺周辺の落ち着いた空気とお花の組み合わせは、散歩するだけで心を整えてくれる特別な時間をつくってくれるでしょう。

和田堀廟所が「穴場」で終わらない理由は、ここが日本の歴史と深く結びついているからです。境内には、ノーベル平和賞を受賞した第61〜63代内閣総理大臣 佐藤栄作 の墓所があります。また、明治文学を代表する作家 樋口一葉 の墓もここにあり、文学好きや歴史好きにとっては思わず立ち寄りたくなるスポットとなっています。教科書で読んだ人物たちが、この静かな地で眠っていると思うと、日常の中に歴史の重みが溶け込んでいるような不思議な感覚に包まれますね。

明大前を訪れた際は、ぜひ足を伸ばしてみてください。都会の中にひっそりと佇む、あたたかな時間に出会えるはずです。



その他明大前の歴史

かつての邸宅街 約80年前、明大前周辺は100坪単位の広い屋敷が多く、アパートなどはほとんど見られない地域でした。これは、現在の学生街のイメージとは異なる、閑静な住宅街としての側面を示しています。

日本初の民間交番「明大前ピースメーカーズ」 1990年代後半、明大前駅周辺は治安が悪化し、交番が焼き討ちされる事件も発生しました。この事態を受け、地元住民や商店街が協力し、2001年に日本初の民間交番として防犯ボランティア団体「明大前ピースメーカーズ」を結成しました。この活動により、地域の治安は大きく改善されました。

馬術金メダリストの別宅 日本人初のオリンピック馬術競技金メダリストである西竹一(バロン西)選手の別宅が明大前にあったという話は、地元の歴史として語り継がれている逸話です。西選手は1932年のロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得し、馬術競技における日本の唯一の金メダル保持者(2024年現在)です。